動物園と言葉、あと世間との温度差についてちょっとなwwwww

2017年6月6日のわが家の結婚記念日(どうでもいい)の西日本新聞朝刊に、印象的な記事(エッセイ?)が2つ掲載されていた。

新聞社の公式サイトにもこれらは掲載されていないし(多分)、新聞という特性上、見逃したら二度と出会えない可能性が高そうなので、ここに紹介する。

まずは「まなびやのあかり」。
日本語の読み書きを学ぶ自主夜間中学「よみかき教室」の日々を、九州大学教授の木村政伸さんが綴っているもの。



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■白黒テレビがからーもまったごたる

 長い間願っていた文字を手にした時、何が変わるのでしょうか。

 よみかき教室に通いだして2、3年たったAさんに、「字を覚えて何か変わりましたか」と聞いたことがあります。その時に言われた言葉を忘れることができません、

 「白黒テレビがカラーテレビになったごたる」

 私は、おそらく白黒テレビを経験している最後の世代かと思います。白黒テレビがカラーテレビになった時の衝撃は今でもはっきり覚えています。現代に比べて性能は段違いですので、赤色がにじんだりどぎつかったりした記憶がありますが、本当に世界が変わって見えました。

 識字学級の実践を語る上でよく引用されるのが、高知の識字学級で学んだ北代色さんが書いた、「夕やけを見てもあまりうつくしいとは思は(わ)なかったけれどじをおぼえてほんとうにうつくしいと思うようになりました」という文章です。ほとんどひらがなばかりのこの文章は、読み書きができずに厳しい暮らしの中で苦労していた人たちの叫びのようにも思えます。

 なぜ白黒テレビがカラーテレビになったのでしょうか。なぜ夕やけが美しく思えたのでしょうか。
 それは文字を通して幅広い情報を手に入れることができるようになった、というだけにとどまらないものがあるように思います。わずかでも読み書きができるころで、それまでとまったく違った人生が開けてきたのかもしれません。


なんだこれ。ちょっと泣きそうになったわ、本当に。
いわゆる部落差別に類する話だ。だから「解放」という喜びという見方もあるし、じじつそうだと思う。
でも違うんだ。それだけじゃない。きっと。

人とは言葉だ。言葉が僕らを存在せしめる。

だから言葉を意識すること、獲得すること、わがものとすること。それが、それだけが人生を豊かにする。

感情が先じゃない。言葉が先なんだ。
言葉という器が、掴みどころのない、それだけでは雲散霧消しちゃう感情、思いを現世に繋ぎ止めるのだ。

虹は七色じゃない。
七色と“知っている”から七色に見えるのです。
じじつ、五色という国の子供は五色に見えるらしいし、三色という国なら三色に見えるそうだ。

仕事柄(子育て支援w)つい思ったのが、この話は子供にとっての絵本とおなじだってこと。
よい絵本の条件のひとつは、「(子供が)正しく美しい日本語とであう」こと。
正しく美しい言葉を自分のうちにもつことが、その子の人生を正しく美しくするからです。
人は自分のもっている言葉以外で考えることができない。おそるべきこのじじつ。


さて、じゃあ「動物園」とは何か。
命の営みを、不思議を言語化する場所です。

「カワイイ」や「珍しい」だけじゃMOTTAINAI。
動物園人たちが動物の生態、能力、分布地等々を、POPやガイドなどあの手この手で僕ら来園者に伝えようとするのはなぜか。
そこまでして僕らに知ってほしいと切望するのはなぜか。
僕らに、動物を感情だけでなく、正確で多様な情報でもって「理性」すなわち「言葉」で相対すること求めてくれてる理由とは―。

決まってる。
動物が「ほんとうにうつくしく」感じるからだ。


なんて上から目線で新聞めくると、畳み掛けるように素晴らしいエッセイがまたひとつ。
あの松尾スズキの、読んでて心配するくらい暴言激烈で毎回楽しみでしょうがない少年時代の自伝でス。
ご一読ください。



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■少年水死体事件

 さて、話は行きつ戻りつするが、お察しの通り私は大人になった今でも、揺るぎなく子供が苦手だ。
仕事場に子供を連れてくる人がいる。その人はその人でしかたない事情がもちろんあるのだが、途端に私はそわそわしだし、どう振る舞えばいいのかわからなくなる。
周りの人間は、皆、仕事の手を止め相好を崩して、その子をあやしたり一緒に遊んだりし始める。私にはそれができない。できても一分が限界だ。そこに激しくコンプレックスを感じる。
いや、零歳児から一歳児くらいならなんとかなるかもしれない。お互いに一方的でいられるからだ。
問題は二歳児以上の子だ。彼らには自我がある。子供の自我を前にすると、私は俄然いたたまれない気持になる。
なんとか笑顔を作ろうとするが、意思の疎通ができる場合とできない場合があり、そこに法則性はない。子供の機嫌は永遠にミステリアスなのだ、という残酷な事実の前に、どうしてもひきつってしまう。

 この間、行きつけの整体院の待合室で施術の間、ゆゆしき事態が起きた。受付の女の子が客の連れて来た子供の子守をしていたのだが、私と目が合うなり「ほら、待ってるおじちゃんだよー」と言って。私にその子を紹介したのだ、

 なぜ紹介する?

 待ってるおじちゃんですよ、て。そりゃあ待合室にいるおじちゃんはたいてい待ってるおじちゃんですよ、責めてるおじちゃんは、責め合い室にいるよ。

 どうして、すべての大人は子供に対して微笑ましい感情を持つと牧歌的に思い込めるのだ。その思考停止に憤りながら、しかし一応大人であるのでしかたなく笑顔を作るが、子供は無表情にこちらを見つめるだけである。

あの無表情が怖いのだ。あの無表情が私の心を焼くのだ。

 見つめられる方の心情にはまるで無頓着で、なのに、こちらの心はすべてお見とおしであるかのような、あのニワブチ兄弟のような無表情が。

 なぜ、皆あの目を恐れない。なぜあの沈黙に耐えられる。あの受付嬢の鈍感さは、万死に値するものだ。


たしかに!! 子育て支援者(僕)真っ青wwwww
いやね、思うところもある。

「すべての大人は子供に対して微笑ましい感情を持つと牧歌的に思」ってるわけじゃあないかもしれない。
じゃあどう思ってんのかというと、「すべての大人は『子供に対して微笑ましい感情を持て』」と思ってるわけだ。
「持たなくても、必要に応じてそう振る舞え。それが「大人」の役割だ」…て(少なくとも僕は)思ってる。

だからすべての大人に子供に開襟することを強いるのだ。ヒドイ話だ。
でもここは譲れない。
大人は子供の礎にならないといけない。

個人的感情を超えて、与えられた立場、責任をどう全うするか。これに応えるの「大人」だと思います。
動物園人たちが、「カワイー」だけの見方を看過できないのも「大人」だから。自分たちの責任を自覚してる。


しかし松尾スズキ、いいこと言うなあwwwww

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